見た目の悪い茶碗蒸しは簡単で美味いから試して欲しい

千葉雅也さんの「現代思想入門」を読んでいる。現在ドゥルーズの章。

デリダ的に二項対立を否定し(時には二項対立の否定すら否定し)、ドゥルーズ的なリゾーム的に物事を考えるというトレーニングが、大学生活を通して徹底されてきたのだということを改めて感じる図書で面白く読んでいる。

ところで、ドゥルーズガタリが「アンチ・オイディプス」において「親子関係のみにおけるトラウマ形成において精神は形成されるというものを批判的に検討をし、さまざまな諸要素から影響を受けて精神というものは成立している」というようなことを述べている、という解説があった。
いわゆる、トラウマとか家庭環境とか「のみ」では人間は成り立たないということだ。

自分語りをする時によく考えるのが、親子関係やトラウマよりもどの年齢でどんなものに触れてのかということをよく考える。いつも同じことしか考えないな、俺は阿呆なのか、など思っていたりしたが、これはドゥルーズガタリの思想の影響を玄孫受けぐらいな形で影響されていたんだなと思い当たった。とても新鮮だった。

小学生の頃、コロコロコミックコミックボンボンで育ち、その中でも特にガンダムに興味を持ったので、戦争や歴史、政治というものに強い関心を持った。外でもよく遊んだ、草を木刀で切ったり、石を拾ったり、穴を掘ったり、そんなことが楽しかった。
中学生の時は、父の影響でビートルズやクイーンといった音楽を聞きつつ、エヴァ、カウボーイ・ビバップガドガード魔法陣グルグルあしたのジョー巨人の星などといった新旧サブカルチャーに触れることができた。オタクだと思われるのが怖かった。
高校になると、大きな学校へ行ったので、思想的にできるだけ目立たないように、バンプラルク、ジャンヌなどそこら辺を聴いていた。漫画は、ベルセルクハガレンうすた京介など影響を受けた。高校もこなれてくると、いわゆるオタクの友人もたくさんできて、最新のアニメなど教えてもらって、大変充実していた。
中高を通じてスポーツも熱心に取り組んだし、クラス長もやった(やらされた)。

大学にはいって、これまでのことがバシッとつながって解放された気がするし、さらに社会人になって、もっとこれまでのことがバシッとつながって生かされている気がする。
きっと人生ってそんなものなのだろうと思う。

そういうふうに人の生を解釈し、議論することにおいてやはり哲学や美学といったものは重要なんだと思う。そういうものがなければ、私のこの話もただの物語に過ぎない。私は自分の今までの人生を物語以上の教訓めいたものを感じて捉えている。もちろん私だけにとっての教訓である。

そうか、だから現代思想以前は、経験などが教訓めいている作品というものが少なくって物語的なのか、とか色々納得することがあるが、キリがないので筆を置く。