新型コロナウィルスについて考えること

新型コロナウィルスが猛威を奮っている。
当然皆さんご存知だろう。というか、もう心身ともにうんざりしているかもしれない。

何にこんなにもうんざりしているのだろう?
ウィルスそのものにもうんざりしているかもしれない、ウィルスの蔓延によってもたらされる制限に対してだって考えられる。毎日流れてくる薄暗いニュースに心を痛めているかもしれない。

この気持ちをどう整理して良いのかわからない。
外出制限。防疫の観点からは大変重要だと思う。そうだとしても、心のバランス不調や外出制限をできない人の立場を考えたら大きな声で積極的にYesと言えるだろうか。
指導者の問題。有能な強い力をもった人に素早い対応を求める声も見える。「有能な力の強い人」の素晴らしい政治力なのか、「些末(実際には些末でない人もいると思うが、私の立場で書きます)で力の弱い民衆」がすごくゆっくりだが民意を反映させるプロセスを保持できる現状のシステム(このシステムが万能とは言っていない。私自身うんざりしている部分も多々ある)を保持することが重要なのかを考える必要がある。
生活の問題。環境や職種によって生活を維持できる人と維持できない人がいる状態で、全員に同じルールを広めていくことが正しいのか。そう言った状況を見ながら防疫的な立場だけを取ることができるのだろうか。

ただ僕は粛々と手洗いうがいをし、最小限の外出に留め、様々な意見に触れ、手の届きそうな具体的なメッセージを出している人にささやかなフォローをすることしかできない。
もしかしたら僕が意識していることは、やっているつもりで全て不十分だという可能性すらある。

なにか一つを信じてしまいたいと思うこともある。その方が楽だから。
でも絶対それは避けなければならない。たとえ誰も助けられなくても、誰かのことは想像して動かなければならないと僕は信じている。

私の小さな意見は誰にも見てもらえない可能性が高いし、特段見るべきだとも思わない。政治的な主張や疫学的な考え方の相違もきっとあるだろうし、専門的に勉強している訳ではないから大きな声では語れない。

でも、常に「私の他に誰かがいる」ということは忘れてはならないと考えている。これは絶対にそう思う。
自分で精一杯という意見があることはもちろんその通りだと思うし、他の人のことを考えていたらそもそもどうしようもないのに!という批判がある可能性もわかっているつもりだ。
しかしながら、他者への想像力を失ってしまうということは、「私自身」も誰にも顧みられない、という可能性が常に隣に鎮座しているということである。

僕も今は自分の小さな領域をキープすることにかなり必死になっている(つもりだ)。それでも自分のことばかりは考えていられない。僕はそうやって、間接的に、自分の身を守っているだけなのかもしれない。

僕はそうやって何かしらの理由をつけながら生きていくことしかできないとても弱い人間だけれども、その弱さを受け入れなければならないと考えている。
もっと強くいうのであれば、そういう弱さを持つ必要があると考えている。自分が弱いから他者が弱い可能性があることを積極的に考えることができると考えている。

でもそれは僕が勝手にいろいろ考えすぎているだけで、その他の人々がそうは思っていないのかもしれない。
それでもなお、僕は「私の他に誰かがいる」という想像力を持ち続けると決めている。

以上のことは言い訳に聞こえてしまうかもしれない。そうかもしれないが、それもしょうがないなと思うしかない。

 

お題「#おうち時間