昔の文章〜温泉考〜

2016/10/16

今住んでいる街にはクールな温泉がたくさんある。ここでいうクールは、温泉のひなびっぷりを指す。番台がいなかったり、シャワーがなかったり、脱衣所の入り口が外に向けて全開だったりする、いわゆる「古き良き」温泉である。
僕も「古き良き」温泉が好きである。新しくて素晴らしい施設で、サウナに入って、風呂上がりのビールとかも最高だけれど、ひなびた浴槽でじいちゃんばかりに囲まれて、ただお湯につかり沈思黙考するのも悪くない。むしろ好きです。
多くの人が知っているように温泉にはいくつかルールがある。入浴前に体を流すとか、タオルは湯船に入れない、とかそういうものだ。ひなびた温泉に行くとさらにローカルルールが追加される傾向がある。例えば、風呂上りに「お先に」と粋に告げて退出することがあげられる。僕なんかはこの街に来たてのペーペーで、しかも現代にありがちなひげボーボーの背の高いやつでおじいちゃんからしたら完全に異物であろうが、「こんにちは」「お先に」と僕がいうと割と穏やかに接してくれる。これは挨拶をすることで人の警戒心が解かれることにも起因しているのかもしれないが、ローカルルールを身体化させた結果、地元民として受け入れてくれるという意味合いが強いような気がしている。こうやって、町に慣れ、地元民化していくのだなと思いながら温泉につかる。そして「古き良き」温泉と町に良さを見出していく。
しかし、先ほどから「古き良き」と何度も言っているが、具体的にいつ頃を想定して「古き良き」なのか、そういった疑問が浮かびませんか。僕は今日朝温泉につかっていて考えてしまった。
漱石の本を読んでいると、泡だらけ垢だらけで湯船に入る文化が明治ごろにはあったようである。今すると絶対怒られる。となると明治期は「古き良き」時代ではない(当然漱石の話が全部フィクションだったら違うかもしれないけれど)。
そう考えると、明治以降の近代化して、それが熟成された昭和ごろの、いってしまえば「最近の」慣習を勝手に「古き良き」温泉文化と感じているのかもしれない。なんだ、そんな古くないじゃんと思う。よく考えると利用者が昭和の人ばかりの温泉なのだから当然といえば当然である。
文化を勝手に想像(創造)して、あたかも日本元来の文化であるような語り口は世の中にあふれている。ちょっと前に流行ったテルマエ・ロマエという温泉漫画を例にできる。日本人が入浴前に体を洗うなどの「昔からの」ルールを守って温泉を入っていると、古代の来訪者である温泉技師が日本人(平たい顔族)すごい!と感銘をうけるのである。
しかし、そういう温泉文化を作りあげたのは西洋化して常識についてよく考えた昭和の日本人で、明治期の西洋化黎明期では、江戸っ子は体洗わなくてもいいんだよテヤンデイ的な、別の日本人も顕在化してくる。要するに主人公のルシウスは、彼らのローマが基盤を作りあげた西洋合理主義の恩恵を現代日本で受けているという全然のんびりできない状況で日本文化に感動しているのである。そして我々読者は日本のノスタルジーを漫画から感じていく。
しかし、別にいわゆるテヤンデイ的な日本人に戻るべきとかは全然思わない。お風呂はきれいな方が気持ちがいいし。そしてルシウスがそれが日本文化ではないかもしれないと気付く必要もない。僕はこういうちょっとしたことを意識しながら日々温泉につかることが重要だと思っている。それがルールを守って気持ちよく温泉に入ることにつながると思うのである。

ちなみに今日も「お先に」と言われれたので「どうも」と返したが、「どうも」って微妙だなと思う。なんていえばいいんだろう?

今日行った温泉は一回200円、回数券買うと1回160円、でもとても気持ちいい泉質の温泉です。日当山温泉郷、なかなかマニアックでおすすめです。